張りとは何か再考を迫られる?

近藤勇の写真とか昔の書とか調布の郷土博物館で見たよ。

 

細かい字だねぇ。なかなか見事だと思いましたが、しかし、あんまり”空間の響き”がないので私は好きになれませんでした(爆笑)。

 

 

帰ってきて日経新聞を開いていたら、日本画壇の忘れられた大家が載っていました。

 

木島櫻谷という人だそうです。あぁ、本当だ、何か違う。私は好きじゃないです(爆笑)。

 

私は、日本画と言うものは分かりません。しかし、これじゃぁ、騙し絵っぽい、と言う感じかなぁ。パノラーマ!みたいな。で、何が言いたいの?見たいな感じ。

 

前出の件とあわせて両者は何の関係もないですが、私はかなり普通の日本人とは美観が違うと自覚していますよ(まだ連載中なのに失礼でした)。

 

例えば、かぁちゃんの子守唄を五線譜にのせる。すると、俺のかぁちゃんの子守唄がこんなオタジャクシなのか?とあなたは思うだろうか。これは人間を数理的に記述しようとする動機の始まりだ。経済合理性の見地から感情の機微を見るようなランク付けの始まりだ。

 

大学生なら、自然言語人工言語との相克で、神経世界を模索するのが学問の入り口だろう。例えば、論理学や言語哲学と言った、数学と同じような記号論理学の世界も、人工言語の一種であろうとするのなら、我々は、時にこうしたバイモードで心の琴線に触れる文章の記述を観察する。

(あるいは、それ以上のモードチェンジを繰り返して自然科学の世界に分け入るのかも知れない。)

 

ごく初歩的なデッサンや書の世界においても、そうしたバイモードがあることは既に可能性を示した。

 

そう言う私の趣味で無かっただけで大変わがまま勝手な価値判断の押し付けかも知れません。申し訳ない。

 

ただ、自然言語一本やりの漢字奴隷だとか、その聖書物語風で済むのなら、大学は要らない。余力があれば誰でも大学にいける国なんてそうそう無いんだから、何かがおかしいか、何かが諸外国のエリートと比べて削られていると見るべきだ。

 

キリスト教大学では、キリスト教精神を尊重せよとのたまうかも知れませんが、私は、例え変態と罵られてもそれ以上の何かを追求したい性質です。

 

私は日本人の心を完全に失ったわけでは無いが、オブジェクト指向的な感性の人生街道まっしぐらな感じなので。いえ、実身仮身原理主義者と言うのじゃありません。まったく違います。