死すべき時は生きる時(近日の修正と弁解とか)

木を見て狼を思うのは、狼の棲む森を思えばこそ。

 

今、森は見たくない。木が見たい。

 

狼の生息条件である様な何らかの危険要素を含む森集合には触れず、その輸入品目である木だけ鑑賞したい。

 

様々な輸入品の収集物で例えば欧州を夢想し、書物の世界を再現しようと言うのだ。

 

しかし、物事には良い面と悪い面があるのなら、その分類が言語構造に由来するものであることを知る以上、それが対象の物理に帰属する性質かどうかよく見極めた上で、着想の関連付けを少し解したりしなければならないと思う。確率的にそのことがもたらす意味付けが、この場合どの程度か推量して、なるべく現実に近似する世界観を探る。

 

こう言う内面的自由を奪う音声送信、もしくは幻聴は、心の鎖国を奪っている。

 

隠れてこっそり皆に追いつこうと言う試みは常に怪しい。体制側から嫌われる。自由時間は変態性欲の醸造期間でもある。こうして、やがて社会主義かと見まごうような、内面への介入が正当化されるのだろうか?

 

もし、思考盗聴技術が確実ならば。

(またあるいは、神経遮断薬のもたらす循環停止によっても。)

 

勘違い!と言う野次は、この時、自由な連想や類推能力に神経疲労由来の能力低下をもたらす。

 

もちろんのこと、そのような思考が、森の総体を解明できるとは限らない。もっと自然は奇怪な数理に基いていて、人智を遥かに凌ぐ場合も多い。分解再結合と拡大解釈や類推の繰り返しでは、理解し得ない次元があろうかと思うので、これではあくまで自分史的な自己満足の世界である。

 

こうして私のトーテム・コレクションの箱庭は、遂に森へと成長することなく鎖国を解かれて現状の退廃があるようなものか。

 

現実に飲まれて、心はその垣根を打ち砕かれ、理性は欲望を満たす歯車としての機能主義的合理性のみ。それ以上のところは、実際、挑んで見ないと分からない。ある程度、知る前に類推によって予想は立てられる。しかし、それも実際を見て一変するのなら、何の役にも立たないこともある。だから、鋼のような腕力しか頼りにならない。

 

しかし、死は突然に訪れる。緩慢であるのなら、あらゆる事物のランキングが成立する。社会が入力と出力のある何らかのシステムである以上、IDデータから、今後の人生予測は、いよいよ壮年期に入れば、動かし難くなる可能性も高い。そう言う路線で、死ぬ為に生きる哲学はあり得ても、それすらも限局的なリアリティであるから、あくまで、瞬間の中に永遠を見つける、と言うような心象風景を述べているに過ぎない。

(当然ですが私の場合はハイデガーの真似でもない。)

 

生と死と理想があって、理想が生の投影である以上、死の局面でこそ、新たな理想が開かれると信じるようにもなって来ている。

 

(実際にそうそう命は賭けないが、苦悩は私を強くしたと言う意味で)

 

 いやぁ、それにしても多いですね。死ぬよ、とか言う音声送信も結構な回数・・・。