河の流れとかマジ中学生ワロス的な怒りと人権侵害分析について

法律は人に対してその効力を持つが、社会のフレームでもある。

(法律を策定したり運用する人そのものが社会の構成要素でもある。)

 

よってネズミに例えれば、ネズミそのもので無く、ネズミのケージの仕掛けとして機能することを考えるべき。例えば飼育器の仕様書的に。

 

つまり、図と地を同時に見る。すると、社会で生産に従事する年齢とか、引退年齢とか、法律を適用する価値の無い人、と言う判断もすらも出てくる可能性が考えられないわけでは無い。よって民主主義国家ですら、個人の希望の実現の為にだけ法律があるわけではないと分かる・・・嫌と言うほど。

 

そして法律すらも文字で記述され運用されている限りにおいては、すでに粒子化した過去に過ぎないので、その粒子の描く軌跡として、プロセスの方が問題だと分かる。

 

つまり、ここからも社会全体をブラックボックスとして見た場合、入力と出力があるモジュールのように構想されている可能性を知ることが出来る。

 

人の世は波のごとくにあっても、近代国家は入力と出力のある機能的プロセスなのである。

 

よって歴史もまたその時点で編集された過去である限りにおいては、粒子のゼスチャーであって、フォーカスするクラスターの違いでしかない。

 

編集以前の液状化した世界こそが、創発-前夜の人間集団であり、多様な価値観の社会とは、これに似た近代以前のカオスを近代国家に様式として再取り込みしたものかも知れない。これは民主主義の躍動性の秘密だろうか?

 

さる精神分析学の開祖が、当時の国家体制を個人の内の心理機制に適用して、個人心理学を構想した可能性よりも、図と地がセットの動態的表現の方が重要である。

 

社会機能の超自我への投影などよりも、ネズミのケージが人格の鋳型であることが問題なのである。

 

これは外部との接触によってしか自己を確認できない理由である。”地”の拡張においてしかそのチャンスはないからだ。

 

近代以降の日本の偉人は、皆、一度、外国を見てから覚醒しているようだ、と言うのでは、当時の日本の辺境性か、もしくは後発性、あるいは傀儡国家である証拠にしかならないと思う。