音声送信技術とその犯人を解明する為のメモとか 2

四半世紀ほど前の美術系予備校では、デッサンのときなど、観念的に言語で規定し過ぎず、言葉の意味に含みを持たせろ、だとか、情報量の多い線などに注意を向けろ、と、厳しかった。私は真面目に出席しなかったけど。

 

その、単純な輪郭線にも多面体的な光の変化を投影した調子の濃淡を置けと。

 

また、ある時は、ルシアン・フロイトは、面取りが一見ガチガチに見えるかも知れないが、フワッと際から派生したような調子がある、つまり、全然、お前が思っているようなものじゃない可能性が高いと指摘されたりした。

 

別段、大人になった私は、そんなことで葛藤するほどでも無いが、ルシアン・フロイトは素晴らしいな、と普通に鑑賞できる。

 

しかし、この予備校で言うフワッと、と言うのが、気になるのだよね。

 

これ、神経系のフォーカスじゃないかなぁ?

 

デッサンをする時は、遠くの対象をそーッと見詰めて、同時に白い画面にそれを投影する。かすかな鉛筆などの擦れを感じて。また再び対象に視線を戻し、見比べながら。何度か脳裏で同時にそれらを上映して。

 

この時、頭が軽くないと駄目。

 

見詰める時、画面と見比べる時、パサーッと調子を乗せて見立てる時。印象を確認する時。最初の一筆に対して、次の一筆は、距離と質感の情報を常にともなう。だから、手を慎重にコントロールして、同時に調子の濃淡を以前の一筆と比較しつつ、対象の印象をも考慮して強調したりする。

 

自信を持って描けない人ほど、印象に頼り、また、触覚的かつ視覚的な(距離と質感の混然とした)、手の触った感覚で粘土いじりでもするように適当に擦りつけ、それをまた眺めて右脳的に近い感じを探る風だ。無言のフォーカスの連続だろう。だいたい”感じる”ということ自体がそれ。

 

知性で構築的に描くのではなく、感性でやると、下手な人は、すぐ陶芸風な感じに近づく?別に陶芸家を馬鹿にしているのじゃないが、彫刻家の粘土は、ちぎったパンくず程度の塊を延々のせて付け足す感じだ。油絵で言えば、安井曽太郎の千葉の風景画とかみたいな油絵。あれは素晴らしいが、素人のあれに近いのは、とにかく筆をこすり付けるので、アッラプリマの油絵スケッチにしかならない。これは筆の表情の幅が乏しいので、勢いだけの絵になってワンパターンかも知れない。予備校では現役生以外は馬鹿にされる。

 

それでこの”感じる”と言う作業のとき、2007年頃以来の私は、幻聴や野次が飛んでいるんだよ。空ぶかしにぶつけ。

 

”感じる”時に、”朝鮮人が怒っているよ”、とか何とかモソモソ聴こえたりする。一発で、イライラして思考が平板化し、やることが硬直化し、デッサンの見立てが潰れて来るね。

 

今更絵を描きたいわけじゃないが、本当にカルトの技じゃないのか?と疑いたくなるね。

 

今考えても、その、含みを持たせろ、だとか、”もっと感じて”とか言う時の状態、全部、フォーカスする為のストレスのない軽い頭、健康な神経が必要だからね。

 

今更絵をどうの言ってるんじゃなくて、卑怯すぎるんだよね。音声送信のやり方が。

 

おれがピクシブにアップしているのは、まだまだ、そう言う微かな幻聴の妨害を確実に受けてる頃のだよ。

 

頭に来るんだよね。正当な競争にならないように、神経撹乱して、人格に問題があるとかレッテル貼られているだけなんじゃないのかな?

 

金や人生を返せと言いたいね。

 

例えもっと酷い人生の人がいるか知らないが、幾らなんでも、こんな人権侵害の強制収容所まがいの精神医療は嫌だし、この街の音声送信もあり得ない。