ハーバード出身者なんて森江(モーリー)でもない限り意味無いんじゃないの?その2

私の主張は唯一つ。

 

親父越え(セザンヌ越え)は漢字超え。

 

(これは日本人としての宿命だ。)

 

私は以前、発狂してヘンな文章を書いたりして教会へ行ってしまったと書いた。

 

それは、言語以前の衝動性が層分離して外部に漏出したような、遂には言語認識のフレームの構築性を吹き飛ばしたような状態だった。その時点までに累積した集団ストーカなどの負荷に対する反動としてストレスがヤカンの蒸気のごとくに一気に噴出したのだ。

 

そうした圧力に押される形で、発狂している最中に、心的システムと神経システムの内容がバラバラに捻じれて同時に見え始めたのだろう。言ってみれば、これも分光のような、循環の民主主義のようなものだった。

 

(その時までに10年近く頭が割れそうで、あまりの苦痛だったから。それは、強力なさせられ体験を伴って衝動的に勝手に身体が動き、抑えるのに必死だった程。)

 

内容はともかくも、その状態はクワインの論文と同じで、武者小路実篤の晩年の文章風でもある様な、統合失調症の発狂状態であり、普通の会話や文章が、いくつものモードに見えることが特徴だった。

 

しかし、クワインの論文などを知った今、冷静に今考えると、それらのモードはそれぞれに神経の交通整理の仕方を表しているに過ぎないと思える。そしてその様に神経が組織化された結果、異なる世界が、複数、それぞれ神経世界の数だけ存在するかのように見えるのだ。

 

だからこれは、絵とも同じ。かたやイリュージョンとしては石膏デッサンに見えても、フランス風の理屈で分析して見えたり、芸大風の予備校デッサンみたいに感性的に捉えられたり出来る。

 

つまり、それぞれの神経の交通整理のされ方は、文化・文明になぞらえれば、ある環境適応に基いた神経組織の発達の仕方を意味してもいないか?

 

様々な文化・文明のフィルターにおける偏向性の存在を意味してもいようと思う。

 

それは、また、一人の人間としては、花村誠一とチオンピの『精神医学』における心的システムと神経システムの分離した状態でもあるだろう。

 

絵で言えば、『内なる画家の眼』におけるアナログ画の描き方は、心的システム中心だろうが、フランス風の理屈っぽいデッサンは神経システムに括るのがいいだろうからだ。

 

と言うのは、ゲーデル問題の記号論理学など、論理学は数学の一種であることはつとに有名だが、養老猛司の著作に拠れば、数学と言うのは、神経の作動原理を引っ張り出したものの可能性が高いと言うような漫画が載った本があるので、どうかそれを探し当てて読んでください。

 

それらによって、フランス風のデッサンの見方が存在するのも、神経の交通整理のされ方に過ぎないのがおぼろげながら見えてくるでしょう。

 

理屈で考えるというのは、結局、母語でない外国語の翻訳回路を脳内に再構築するのと似ていないか?

 

音楽で言えば、日本語の歌の歌詞の感性を間外しなどして、西洋風に近づける工夫をし過ぎた人だ(笑)。

 

日本人の英語の脳と言うのも限界はあると思うけどなぁ。美術に興味のない親父(セザンヌ)前夜であればある程。

 

なんか漢字奴隷的で聖書物語風どまりで。